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高山右近・志野 夫婦像 右近の郷(高山コミュニティセンター)
右近生誕の地である高山
高山右近は、戦国時代の最中である1552年に高山飛騨守の長子として豊能町高山に生まれました。その当時、地方豪族が戦国武将として台頭し、高山飛騨守も奈良の澤城を任され、頭角を現しました(右近7歳頃)。その頃、キリシタン布教が広がり、飛騨守たちは、それを阻止しようとしましたが、逆に教理に惹かれ、一族、家臣達とキリシタンに改宗しました(右近12歳頃)。このことが後の右近に大きな影響を与えます。その後、三好一族と松永久秀が対立、飛騨守は澤城を守り切れず高山に敗走しました(右近15歳の頃)。
城主となった右近
高山飛騨守は、幕府最後の将軍である足利義昭(織田信長が擁立)を支える和田惟政の配下に入り芥川城を任されました(右近17歳頃)。ところが、義昭と信長が決別し、和田惟政は戦死。その後を継いだ惟政の長子である惟長と対立し、飛騨守は惟長を高槻城から追放。飛騨守は城主となます。その翌年に右近が城主を引き継ぎました(右近21歳頃)。右近は領内を整え、キリスト教布教にも力を注ぎ、その教えから福祉政策にも励んだと言われています。
信長、秀吉に仕え6万石の大名へ
織田信長の家臣である荒木村重の配下に入り、右近は高槻城を安堵されましたが、1578年村重が信長に謀反を起します。右近は多くの領民を守る為、信長に高槻城を明け渡しますが、信長は右近を家臣とし、高槻城を任せました(右近26歳)。しかし4年後、今度は明智光秀の謀反にあい信長が自害。右近は秀吉軍に合流し、光秀討伐の先鋒に立ちました。その手柄として能勢郡三千石と近江千石、さらにその後も功績を上げ、ついに明石6万石の大名となりました(右近33歳頃)。
バテレン追放令と国外追放
ところが、1587年天下統一を果たした秀吉がバテレン追放令を出し、右近に改宗を求めます(右近35歳)。キリシタンの道を選んだ右近は、地位や領地を捨て、前田家の客将となり26年間を金沢でひっそりと過ごしました。江戸幕府になってからも、右近の影響力を恐れた家康は、右近を海外に追放。1615年2月3日、マニラでその生涯を終えています(右近63歳)。
信心深く、民衆に対しても謙虚で誠実な人柄であったといわれ、今も多くの人々に親しまれています。
高山右近を巡る
高山右近生誕地の碑
高山氏が居住していた場所と云われています。木立にかこまれ、秋には紅葉が美しい場所です。
高山マリアの墓
墓碑には江戸時代中期の年号が刻まれ、二組の夫婦の墓と伝えられています。マリアの墓の言い伝えは明らかではありませんが、右近の母の教名はマリアであったそうです。