2026.3.21
亥の子餅の沿革を紐解く2時間のタイムトリップ
『禁裏献上亥の子餅の起源』をタイトルとして郷土歴史の講座を開催した。
講座への広報・声掛け等々で申込が増える恐れあり..、急遽会場を西公民館中会議室から大会議室へ変更し実施。
44名の郷土歴史ファン、亥の子餅に関心・興味の方の参加を戴いた。
『人と人とが繋がって、ものを動かしてゆく…「禁裏献上亥の子餅」を縦糸とし、人の横糸で織ってみたい…』講師/上山秀雄の挨拶から…。
一部は今までの亥の子餅の取り組みや記録(新聞掲載記事、活動記録、亥の子餅試作等)、二部は亥の子餅の起源/神話の伝記等の二部構成とし、神話から亥の子餅の起源について少しふれてみた…。
亥の子餅の起源は諸説あり…、古事記には大阪市の兎我野(とがの)で、祈狩り(うけいがり)を…と記す。
今回の豊能歴史講座では亥の子餅の沿革を紐とき理解する。
1.足利尊氏が木代の庄を石清水八幡宮に寄進
2.石清水八幡宮別当善法寺祐清が亥の子餅の調進支配
3.延喜式神名帳に記載
4.摂津名称図会に調進絵図
5.明治初期、京都御所へ亥の子餅を寄進する
6.亥の子餅祈祷寺『善福寺(廃寺)』
等、公の文献を基とする。
講座には折々の時代背景の蛇足話を取り混ぜた…。
走落神社(延喜式内社)の書物によると西暦550年(飛鳥時代)、欽明天皇の頃、木代ノ荘(木代・切畑・大円)が誕生している。
木代ノ庄内の13家を以て調進家(亥の子株家)とする。大円村は後に切畑村へと合併する。
天正6(1578)年、織田信長が全国社寺の荘園を没収する。これにより一時期、亥の子の祝は中絶するが、文禄2(1593)年、後陽成天皇の時、天皇が病気になる。医薬祈祷に手をつくしたが効果なし、この時、占いで能勢お亥の子餅を食すると…よいということで再興されている。
その後、江戸時代を通じて献進され、明治3(1870)年11月中止となるまで続けられた。
講座を受けて頂いた方から…「アッという間の二時間でした」「わが町に歴史あり…」「第二弾を是非してほしい」等々、励みになる声を戴きました。
豊能町は悠久の時より..応神天皇即位から皇室との繋がりがあった町である。「亥の子餅で創造」し、「禁裏献上亥の子餅」を観光資源として外に出す努力を…。
まずは悠久の歴史を知ることから始めたい。
(上山)
