応神天皇が亥(イノシシ)によって、難を免れたとの故事により、応神天皇の御宇より毎年十月亥の日に宮中へ献上したと伝えられる。その昔は宮中の儀式として健康を祝って行われていた。その儀式に旧東能勢(現豊能町)の木代村、切畑村の人たちが(欽名天皇の頃からは、定められた十三株の家の人たちが)この亥子餅を献上してきた。献上には烏帽子、白装束、白足袋、草履履きの人たちが京に向かった。
亥子餅は、蒸した餅米とゆでた小豆を合わせてついた餅を折り箱に詰め、その上にこし餡と栗の実を並べ、笹の葉を重ねる。餅をイノシシの肉、餡は皮、栗は骨、2枚の笹の葉は「牙」に見立てているという。
その後一時的に中断のときもあったが、明治2年まで約1600年間にわたり宮中への献上が続けられた。東京遷都以降、毎年の献上は行われていない。
近年、茶道裏千家の計らいで亥子株の西浦三義氏が平成7年京都御所に平成9年皇居に献上した。(資料源郷土史家 栩野勝也氏、上山秀雄氏解説 )
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