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 町の起源 / 町名「豊能町」の由来 / 町歌 

■豊能町の山

■町 章■

4つのひらがなの「と」と中心の「の」でデザインされており、各地域の調和を保ちながら、町が発展していってほしいとの願いが込められています。外側に浮き出る木の葉4枚と基本色の濃い緑は、豊能町の美しい自然環境を表しています。
(昭和52420日 制定)


■豊能町の川

豊能町の位置
地図 

各地区の位置

■アクセス■

梅田からは阪急電車 宝塚線の川西能勢口で能勢電車に乗り換え。妙見口駅前に観光案内所があります。

東地区は池田から国道423号線をバスでお越しください。

■位置■

本町は大阪府の北部に位置し、大阪市内からは、およそ30kmの位置にあります。面積は34.37平方キロメートルで北西に能勢町、北に亀岡市西別院、東は茨木市、南には箕面市止々呂美そして西には川西市黒川、一庫ダムにそれぞれ隣接しています。また標高600m級の天台山、光明山、戸知山等、豊能町の名峰が聳えています。大きくは東部地区・西部地区に便宜上分けられています。 東部地区の中央には猪名川の支川余野川によって侵食された小盆地が広がっています。耕地面積は乏しく、町土の10%、住居は10%程度で、のこりの約80%が山林原野によって構成されています。

■歴史■

現在の豊能町域で人々が生活をはじめたのは、一万年以上も前にさかのぼります。川尻地区から旧石器時代の遺構が見つかっています。

伝説によると、十二世紀の初め貝川三位長乗という人が一族郎党36人を率いて旧東能勢村の切畑・木代に移り住み、ここを拠点に開拓したのが始まりといわれています。中世には木代荘がありました。また十四、十五世紀頃には、木代荘に接して余野荘、川尻荘もあったようです。近代には川尻、余野、木代、切畑、野間口の各村になり、主として幕府領や旗本知行地として続き、幕末には幕府領は高槻藩預かり地(永井日向守)となり、明治を迎えています。
 また旧吉川村は、中世は源満仲を祖とする多田源氏の支配地であったり、能勢氏の知行であったり目まぐるしく入れ替わり、政治的激動期を経て明治期を迎えています。
 明治22年(1889)町村制の施行で、余野、野間口、川尻、木代、切畑の五カ村が合併して東能勢村となり、吉川は吉川村となりました。
 昭和28年(1953)町村合併促進法の制定によって、東能勢村は昭和30年に茨木市高山を編入し、翌昭和31年に吉川村と東能勢村が合体合併して新しい東能勢村となりました。ついで昭和33年に京都府亀岡市西別院町寺田・牧を編入しました。
 その後、村は大規模な宅地開発で人口が増加し、昭和52年(1977)に町制を施行し、豊能町となりました。町制施行時8,480人だった人口は、平成22年(20106月末には約23,358人となっています。(町面積34.37km2

■町名「豊能町」の誕生■

町制を施行するにともない広く新町名の募集をしたところ、応募者が362名あり、新町の候補名は91種類に達しました。その中から「阪北町」と「豊能町」の二つに絞られ、町の将来の発展等を考慮すれば最も適切であると「豊能町」が選ばれました。こうして昭和5241日より、永らく親しまれてきた東能勢村が新生「豊能町」として発足することになりました。

■豊能町歌■

   作詞 谷口秋之助  作曲 景山伸夫
1.永い歴史に 風土のかおり みどり豊かな北摂に 由緒の郷を風習を
   守り伝えてこの日まで わが町豊能 ああ豊能
2
.熱い人情に 自然のめぐみ 幸があふれる北摂に 平和な郷を生業を
   展き受け継ぎ いまの日に わが町豊能 ああ豊能
3
.青い大空 新たな息吹 たぎる文化の北摂に 理想の郷を故郷を
   築き育てん永久に わが町豊能 ああ豊能

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