高山の田の等級は下田の圃場

平安時代後期ころから鎌倉時代にかけ、日本の各地に荘園がつくられました。

秀吉の太閤検地により高山にも検地が入り田畠目録が作られています。それによると27町程あったようです。公田、一色田、神田、職事給田、下司給田、サンガツデン等の地名も荘園のなごりである。また、各谷にはそれぞれの呼び名が付く、その一つにウト谷があり、高山住吉神社の東の谷のようです。

さて高山の27町の耕作地から271石の石高(村高)があった。当時、高山村は高槻藩預かり地である。

ここに、太閤検地の頃 ①上田=1石5斗、②中田=1石三斗、③下田=1石1斗と基準を決め生産高が設定されたようです。畑(畠)は①上畠一石二斗、②中畠一石、③下畠八斗と定められ、検地帳(水帳)に記載されています。

計算の基本は、検査の時に、1坪の試し刈りをする。モミ収量で1升あればいくらと算出する。

1反=300坪で3石のモミ取れ高であれば、玄米にして1石5斗の収穫量の計算となります。

一反=300坪、 一町=一反の10倍なので300坪×10=3,000坪 
3,000坪×27町=81,000坪

この計算では一反(300坪)で約一石(150kg)、米俵2.5俵の計算となります。当時、田・畠(畑)はやせ地だったことがわかる。高山の田畠の等級は下田の圃場であった。

注:今回は、畠(畑)や林野は含まれていません。