伝説の悲話を背景に誇り咲く可憐な山桜

日本に自生するサクラの一種で、本州に広く分布します。全国的にみても少ない種です。兵庫県では絶滅危惧種に指定されています。猪名川上流域には比較的多く自生しています。

当地、吉川上光ケ谷(吉川村前身地)の谷間に多く自生する。花はソメイヨシノよりも少し早く、三月下旬から四月初旬にかけて咲きます。花はソメイヨシノより一回り小振りのようです。ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種です。彼岸の頃に咲くころからヒガンの名前がついたと云われています。

他のサクラと違い、樹皮に縦の裂け目が入り、花の下にある「萼筒(ガクトウ)」が膨らむのが大きな特徴です。

この吉川上光ケ谷ヤシキ谷に数本(10本)確認できています。ヤシキ谷のシンボルツリーとして「源治丸桜(げんじまるさくら)」と命名しました。

上光ケ谷、トンボ池管理地内のヤシキ谷のエドヒガン桜(源治丸桜の命名)

ヤシキ谷の源治丸桜(愛称)について(吉川村誌の史実から命名)

ヤシキ谷遺跡地(伝承)は、吉川村絵図にも「ヤシキタニ」文政元年(1818)とある。
ここに山桜が自生する。今回『源治丸桜(愛称)』と命名しました。毎年三月下旬に開花します。

さて往昔、平安時代中頃、吉川に藤原仲光と呼ばれる土豪がいた。源満仲が天徳元年(970)、多田院を開く上で地元の有力な土豪を家臣(配下)として取り込むひつようがあった。仲光主君満仲に奉仕をつくす。

時が過ぎ、源満仲の末子は美丈丸、十五歳の元服を迎え、これを機に寺へ修行に出されるが、怠け経典も読もうともしない。源満仲は怒り藤原仲光に美丈丸の首を切れと命じたのです。藤原仲光は主君の子(若君)の首を取ることは出来ず、悩み苦しんだ末、自分の子である幸寿丸の首を切り、満仲に差しだす。密かに美女丸を比叡山に逃がしました。

穏やかな時が過ぎ…後に事の史実を知ることになる。美丈丸は過酷な修行に励み源賢僧都という高僧になる。

「美丈丸の身代わり」事件の悲話の中、満仲の弟満政の子(源治丸)を藤原仲光の養子に出すことになる。吉川下ノ町の井戸の地に井戸城(砦)を築いている。住居として上光ケ谷に住ませたと思われるが…確たる証拠はない。ただ地名として今もヤシキ谷(町文化指定伝承地)が残るのみであるが、高貴な人が住んでいたとおぼしき地形(吉川村古地図有)である。

吉川村誌(p109)によると、『所領15ケ所並不動像一体を付けて御満政公之御若君源治丸を仲光へ養子に給ひける』天延元年(973)8月24日とある。

トンボ池と源治丸桜(愛称)エドヒガン桜