~昭和13年に襲った山津波〃ホラが出た〃~

町史に残る水害記事

能勢妙見山参詣道の京からの入口に当たる野間口。
豊能町は過去幾度となく山津波、洪水に襲われてきました。古老たちは「大きなホラ(山津波)が出るのは60年に一度や…」と語る。
今、豊能町の入口、野間口地区「瀧本訓導先生の慰霊碑」の前に立ち回想する。

昭和56年頃、野間口地区在住の古老に津波の話を、瀧本訓導先生の話を聞いたことがある…。
豊能町史743ページ「1938年の大水害」や昭和13年当時の新聞の回顧録によると能勢妙見山麓の静かな山村に7月3日から5日まで雨は降り続き、300㎜を超え、特に五日夜明けの豪雨により、多くの犠牲者、被害が出たという。

当時、東能勢村尋常高等小学校(現、東能勢小)でも、豪雨の為、授業は中止、児童は先生に引率され帰宅しました。野間口地区担当の瀧本撰治先生(三三歳)は児童を無事自宅に送り届けた直後に、野間口集落の上、妙見山・ハギワ谷からホラ(山津波)が出たのである。

ホラが出たと叫び走る人、お寺の早鐘は鳴る、村人はおびえ家族を探す人、お寺、高台に避難する人、家を守る人・人等で静かな山村は大パニック状態になったという。
山津波はおびただしい岩石、土砂、立木をおし流し、大きな山のかたまりのような泥流となり、集落を襲いました。

「ああ殉職・瀧本先生 山津波に敢然 教え子離さず」(某新聞社 昭和十三年七月七日見出し)

この時、一人の生徒が山津波にのまれ余野川で浮き沈む。
それを見た瀧本先生はそのまま飛び込み、生徒を助けた後、力つき先生は激流に流されました。翌日、下流の川尻地区辺りで遺体となって見つかりました…。

水害前は川幅2~3メートルの小川で、夏はよく泳ぎ魚捕りをしたところですが、大雨が降るとすぐに川は氾濫し暴れ川に変貌したそうです。
水害後、川辺の人家は跡形もなく流失、田んぼも流失、いたる所に土砂が堆積し大石がゴロゴロ散在し、痛ましい爪あとを残しました。野間口では八人もの人が命を落としました。また野間口以外でも五、六人の人が亡くなっています。

瀧本訓導先生の慰霊碑

翌、14年に野間口集落入口に高さ2メートルの慰霊碑「瀧本訓導殉職之地」が建てられました。顕彰文(261文字)は当時の府知事や関係者261人が一人一文字で書きつらねたものです。また豊能町立郷土資料館の東横に瀧本訓導先生のお墓があります。

殉職された瀧本訓導先生やホラの話を地元の古老に聞く機会を戴き、早や三十数年が経過…
今日、語りつぐ場と時を戴きました。7月5日は毎年きます。災害は忘れた頃にやって来るともいいます。「瀧本訓導先生」の殉職は、遠い昔の出来事であってはならない。

瀧本訓導先生の慰霊碑には、誰が供えるのか…
いつもそっと花がそなえられています。

(大阪府文化財愛護推進委員/上山秀雄)